先日富岡製糸場を見学してきました。生糸産業は明治当時、富国強兵を目指す日本にとって大変重要な外貨獲得の方法でした。そこで近代的な製糸工場を官営の工場としてスタートしたのが、当時世界にも類を見ない大規模な製糸工場であった富岡製糸場でした。明治5年に操業開始との事で明治維新からわずか5年後のことでした。下の写真は見学券ですが、富岡製糸場の全容が描かれています。

当時の生糸産業は日本の外貨獲得にどの位の位置を占めていたのか、以下のデータから知ることができます。

出典は今井幹夫;法政大学イノベーションマネージメント研究センター編「富岡製糸場の歴史と文化」です。
このように明治初期には生糸の輸出がなんと60%強も占めていたのです。よくこの頃の日本を揶揄して外国の口の悪い連中は「日本は糸を売って軍艦を買う」という話がありましたがあながち嘘ではないことが分かります。

左の写真は工場の正門の様子。正面に見えるのは繭の保管倉庫です。あいにく訪れた日は正面入口が工事中で足場が組み立てられていましたので、すっきりとした形を見る事は出来ませんでした。右の写真は入り口上部に設けられた「明治5年」のキーストーン。
日本の方向を左右する製糸の生産に関して近代的な製糸工業の経験が無い政府はフランス人ブリューナ氏を所謂御雇外国人として招聘し用地選択から工場建設、技術導入などの人を任せたのでした。彼が選んだのは明治以前から発達していた蚕産業や豊かな水源を持ったこの地であったのです。しかしブリューナとそのチームは随分な貢献をしましたが、いかんせん高給であったために工場立ち上げから短期間で解雇されることになります。
左の写真はブリューナ一行。後列右から2人目、白衣を着て柱に寄りかかっている人がポール・ブリューナです。
ブリューナ達がどれ位高級であったかを現在価値で考えてみましょう。ブリューナの月給は600円、プラス年間賄金1,800円、合計年棒が9,000円だったとか。普通の社会人の初任月給が4円である事から現在価値に換算すると、当時の1円が50,000円位になりますから現在価値になおすとブリューナの年棒は4億5千万円であったとか。彼以外の御雇外国人として技師や教育係を兼ねたフランス人の上級女工等がいてこれらのチームが工場の経営にインパクトを与えていたという話もあります。下記に述べている採算性についての項目を参照してください。
さてその製糸工場の建物は明治の建設当時から残されているものが多く、いま世界文化遺産の候補として上げられています。官営の工場という事でスタートしましたが、経営は常に赤字ではじめから問題を抱えていました。その後、官営から民営工場として民間に払い下げられ、三井家、原合名会社を経て片倉工業の経営になりました。1987年まで約115年間操業を続けその後片倉工業によって保存されました。2005年に富岡市に寄贈されて、世界遺産登録を目指しています。
当時の富岡製糸工場の採算は、下記のようになっています。出典は上記と同じ、今井幹夫;法政大学イノベーションマネージメント研究センター編「富岡製糸場の歴史と文化」です。操業開始時期などは現在価値にして収入が12億5千万円程度しかありません。ブリューナの給与4億5千万円等を考えるとこれでは逆立ちしても黒字にはなりませんね。あまりにも給与が高すぎますがノウハウの無い当時の日本としては仕方が無かったのでしょう。経済的にも技術移転を早く進める必要があったのですね。

さて工場はブリューナ達の計画通り当時としては素晴らしい設備になっています。また勤務体系もフランス式雇用形態を採用したといわれています。日曜日は休みで一日8時間労働でした。現代と変わりません。製糸産業といえば映画にもなった野麦峠の女工哀史がよく語られますが、操業開始してから官営の時期に富岡製糸場では過酷な仕事環境は無かったといわれています。ただ官営であるが故の採算性の悪さからみてこのような勤務形態はあまり長く続かなかった事は容易に理解できます。時代が移るにつれて女工達の勤務時間は長くなっていきました。10時間を越える重労働を強いられた事が記録として残っています。工場のなかは空調も無く、仕事はもっぱら繭を手繰る絶え間ない緊張を要求する作業であったし、繭をゆでる湯の湿気や繭の悪臭で劣悪な職場だったでしょう。零細な長野地方の工場などでは最新の設備を備えた富岡製糸場の比では無い程、労働環境が悪かった事も理解できます。
さて工場の情景です。入り口を入ってすぐに繭の保管庫があります。そのなかから今入って来た入り口方面を写した写真です。門の外の街並も見えますね。このホールの左側に展示室、実演コーナー、売店などがあります。

富岡製糸場の煉瓦は一般にフランス積みと呼ばれていて、上記写真の左側にサンプルが置いてあります。どうもただしくはフランドル積みとよぶそうですが。上記の写真の左側にこの煉瓦積みの見本がありました。
下の写真は繰糸場の外観です。外から見ると二階建てのように見えますが、平屋建てで長さが140mもあります。

繰糸場の内部です。片倉工業で使用していた繰糸機械がそのまま保存されています。天井はトラス構造になっていてなかには柱がありません。ブリューナ達は西洋建築と日本建築の長所を考えてこの工場建物を設計したようです。ここに女工さん達がずらっと並んで仕事をしていました。

毎週水曜日に市の保存会のスタッフによる繰糸のデモンストレーションがあります。お湯を沸かしてその中に繭を入れて湿らせます。繭の一部から糸を繰り出すとそれを撚っていきます。繭は一本の糸から成っているので、ずっと糸を撚っていけます。このデモの場合お湯は湯沸かしで湧かしたものですが、工場では蒸気エンジンが動いていて、その高温蒸気でお湯を沸かしていたそうです。よく見ているとうまく糸を蚕から抽出するのは熟練したコツが必要なようです。女工達も手先の器用さで給与の査定を受けていたそうです。

これは繭から製糸された絹糸。大変綺麗な色をしています。すごく高価なものもありそうです。群馬シルクの製品から引用。

長野県の岡谷地方ではその後大正昭和長時間労働を強いられた女工の物語が伝えられています。下記の画像は松本市の奈川中学校3年生制作の短編映画「野麦峠を越えた少女たち」。キッド・ウィットネス・ニュース 2012年度日本最優秀作品賞/未来をつくる少女賞を受賞しました。
日本の産業の担い手は生糸から他の産業に移っていきました。現代はさしずめ自動車の時代ともいえましょうか。貿易の金額の多さは今と明治時代では比較になりませんが、その時代の主要な産業は日本にとって大変大きな存在感を示していた生糸産業であることが一目瞭然です。今はもうその面影もありませんが。

工場の中庭を抜けると、そこには静かに時を刻んでいる西側繭倉庫が佇んでいます。まるで時間が止まったかのよう。栄枯盛衰の風雪にさらされた姿を偲ぶことができますね。

今回の旅行では、歴史をそのままに今に引き継がれている富岡製糸場を見て明治以降の日本がたどって来た道のりを少し体感することが出来たように思います。

当時の生糸産業は日本の外貨獲得にどの位の位置を占めていたのか、以下のデータから知ることができます。

出典は今井幹夫;法政大学イノベーションマネージメント研究センター編「富岡製糸場の歴史と文化」です。
このように明治初期には生糸の輸出がなんと60%強も占めていたのです。よくこの頃の日本を揶揄して外国の口の悪い連中は「日本は糸を売って軍艦を買う」という話がありましたがあながち嘘ではないことが分かります。


左の写真は工場の正門の様子。正面に見えるのは繭の保管倉庫です。あいにく訪れた日は正面入口が工事中で足場が組み立てられていましたので、すっきりとした形を見る事は出来ませんでした。右の写真は入り口上部に設けられた「明治5年」のキーストーン。
日本の方向を左右する製糸の生産に関して近代的な製糸工業の経験が無い政府はフランス人ブリューナ氏を所謂御雇外国人として招聘し用地選択から工場建設、技術導入などの人を任せたのでした。彼が選んだのは明治以前から発達していた蚕産業や豊かな水源を持ったこの地であったのです。しかしブリューナとそのチームは随分な貢献をしましたが、いかんせん高給であったために工場立ち上げから短期間で解雇されることになります。

ブリューナ達がどれ位高級であったかを現在価値で考えてみましょう。ブリューナの月給は600円、プラス年間賄金1,800円、合計年棒が9,000円だったとか。普通の社会人の初任月給が4円である事から現在価値に換算すると、当時の1円が50,000円位になりますから現在価値になおすとブリューナの年棒は4億5千万円であったとか。彼以外の御雇外国人として技師や教育係を兼ねたフランス人の上級女工等がいてこれらのチームが工場の経営にインパクトを与えていたという話もあります。下記に述べている採算性についての項目を参照してください。
さてその製糸工場の建物は明治の建設当時から残されているものが多く、いま世界文化遺産の候補として上げられています。官営の工場という事でスタートしましたが、経営は常に赤字ではじめから問題を抱えていました。その後、官営から民営工場として民間に払い下げられ、三井家、原合名会社を経て片倉工業の経営になりました。1987年まで約115年間操業を続けその後片倉工業によって保存されました。2005年に富岡市に寄贈されて、世界遺産登録を目指しています。
当時の富岡製糸工場の採算は、下記のようになっています。出典は上記と同じ、今井幹夫;法政大学イノベーションマネージメント研究センター編「富岡製糸場の歴史と文化」です。操業開始時期などは現在価値にして収入が12億5千万円程度しかありません。ブリューナの給与4億5千万円等を考えるとこれでは逆立ちしても黒字にはなりませんね。あまりにも給与が高すぎますがノウハウの無い当時の日本としては仕方が無かったのでしょう。経済的にも技術移転を早く進める必要があったのですね。

さて工場はブリューナ達の計画通り当時としては素晴らしい設備になっています。また勤務体系もフランス式雇用形態を採用したといわれています。日曜日は休みで一日8時間労働でした。現代と変わりません。製糸産業といえば映画にもなった野麦峠の女工哀史がよく語られますが、操業開始してから官営の時期に富岡製糸場では過酷な仕事環境は無かったといわれています。ただ官営であるが故の採算性の悪さからみてこのような勤務形態はあまり長く続かなかった事は容易に理解できます。時代が移るにつれて女工達の勤務時間は長くなっていきました。10時間を越える重労働を強いられた事が記録として残っています。工場のなかは空調も無く、仕事はもっぱら繭を手繰る絶え間ない緊張を要求する作業であったし、繭をゆでる湯の湿気や繭の悪臭で劣悪な職場だったでしょう。零細な長野地方の工場などでは最新の設備を備えた富岡製糸場の比では無い程、労働環境が悪かった事も理解できます。
さて工場の情景です。入り口を入ってすぐに繭の保管庫があります。そのなかから今入って来た入り口方面を写した写真です。門の外の街並も見えますね。このホールの左側に展示室、実演コーナー、売店などがあります。


下の写真は繰糸場の外観です。外から見ると二階建てのように見えますが、平屋建てで長さが140mもあります。

繰糸場の内部です。片倉工業で使用していた繰糸機械がそのまま保存されています。天井はトラス構造になっていてなかには柱がありません。ブリューナ達は西洋建築と日本建築の長所を考えてこの工場建物を設計したようです。ここに女工さん達がずらっと並んで仕事をしていました。

毎週水曜日に市の保存会のスタッフによる繰糸のデモンストレーションがあります。お湯を沸かしてその中に繭を入れて湿らせます。繭の一部から糸を繰り出すとそれを撚っていきます。繭は一本の糸から成っているので、ずっと糸を撚っていけます。このデモの場合お湯は湯沸かしで湧かしたものですが、工場では蒸気エンジンが動いていて、その高温蒸気でお湯を沸かしていたそうです。よく見ているとうまく糸を蚕から抽出するのは熟練したコツが必要なようです。女工達も手先の器用さで給与の査定を受けていたそうです。


これは繭から製糸された絹糸。大変綺麗な色をしています。すごく高価なものもありそうです。群馬シルクの製品から引用。

長野県の岡谷地方ではその後大正昭和長時間労働を強いられた女工の物語が伝えられています。下記の画像は松本市の奈川中学校3年生制作の短編映画「野麦峠を越えた少女たち」。キッド・ウィットネス・ニュース 2012年度日本最優秀作品賞/未来をつくる少女賞を受賞しました。
日本の産業の担い手は生糸から他の産業に移っていきました。現代はさしずめ自動車の時代ともいえましょうか。貿易の金額の多さは今と明治時代では比較になりませんが、その時代の主要な産業は日本にとって大変大きな存在感を示していた生糸産業であることが一目瞭然です。今はもうその面影もありませんが。

工場の中庭を抜けると、そこには静かに時を刻んでいる西側繭倉庫が佇んでいます。まるで時間が止まったかのよう。栄枯盛衰の風雪にさらされた姿を偲ぶことができますね。

今回の旅行では、歴史をそのままに今に引き継がれている富岡製糸場を見て明治以降の日本がたどって来た道のりを少し体感することが出来たように思います。
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