丸の内から歩くと皇居が見えてきます。1457年、太田道灌が築城したのが最初の江戸城。その後、徳川家康が征夷大将軍に任ぜられた1604年以降3代将軍家光の時代までに、幕府の本拠地として、壮大な建築がなされた日本最大の城郭を持つ城が出来上がりました。1868年の明治維新までここは武家政治の中心地でした。明治天皇が京都から移られた後も政治の中心地として文字通り日本の中心と呼ばれている所です。現在皇居東御苑として一般公開されています。
日比谷から東御苑に向かうと、内堀の外側に昔は海につながっていたという場所に荷揚げ場や人寄せ場があり蔵があったとされる和田蔵門跡。今は噴水公園になっています。


噴水公園を横切って内堀取りに出ると正門である大手門に出ます。ここから東御苑にはいります。


大手門を入って左に曲がると百人番所、中の門奥に大番所があります。


その億に更に進むとそこには昔江戸城の中枢である本丸御殿があった所。いまは公園になっている。表、中奥、大奥があった一帯は芝生に覆われ、浅野内匠頭刃傷の松の廊下も全く跡形がない。ただそこに木々が植え込まれ枝だけのシルエットが時間の過ぎ去った様を表しているかのようでした。

その芝生公園に一本の冬桜。

1657年明暦の大火(俗に振袖火事ともいわれている)は湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。天守閣については再建を試みる計画もあったようですが、災害があまりにも大きく町の復興を優先し、また本来の天守閣の位置づけも変わってしまい必ずしも必要がないという意見になって再建されなかったようです。
本丸公園を出て再び大手門井向かう所で、白鳥壕と本丸の石垣が見えます。

日比谷から東御苑に向かうと、内堀の外側に昔は海につながっていたという場所に荷揚げ場や人寄せ場があり蔵があったとされる和田蔵門跡。今は噴水公園になっています。


噴水公園を横切って内堀取りに出ると正門である大手門に出ます。ここから東御苑にはいります。


大手門を入って左に曲がると百人番所、中の門奥に大番所があります。


その億に更に進むとそこには昔江戸城の中枢である本丸御殿があった所。いまは公園になっている。表、中奥、大奥があった一帯は芝生に覆われ、浅野内匠頭刃傷の松の廊下も全く跡形がない。ただそこに木々が植え込まれ枝だけのシルエットが時間の過ぎ去った様を表しているかのようでした。

その芝生公園に一本の冬桜。

1657年明暦の大火(俗に振袖火事ともいわれている)は湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり、日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。天守閣については再建を試みる計画もあったようですが、災害があまりにも大きく町の復興を優先し、また本来の天守閣の位置づけも変わってしまい必ずしも必要がないという意見になって再建されなかったようです。
本丸公園を出て再び大手門井向かう所で、白鳥壕と本丸の石垣が見えます。

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