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DHMOの教訓

昔から有名な話があります。DHMOは危険な物質であるという事実。

1. DHMOは酸性雨の主成分である。
2. 吸引すると死亡することがある。
3. 重篤なやけどの原因となりうる。
4. 地形の侵食を引き起こす。
5. 多くの材料の腐食を進行させ、さび付かせる。
6. 電気事故の原因となり、自動車のブレーキの効果を低下させる。
7. 末期がん患者の悪性腫瘍から検出される。
8. DHMOは軍事利用される。

その危険性に反して、DHMOは頻繁に用いられている。
1. 工業用の溶媒、冷媒として用いられる。
2. 原子力発電所で用いられる。
3. 農薬の一部として大量に散布されている。
4. 防火剤として用いられる。
5. 各種の残酷な動物実験に用いられる。
6. 防虫剤の散布に用いられる。
7. 洗浄した後も産物はDHMOによる汚染状態のままである。
8. 各種のジャンクフードや、その他の食品に添加されている。
このような毒性のあるものを大企業などは河川や海洋に廃棄しているが、違法にはなっていない。


このような話でDHMOを禁止しようという運動が起こったとか。
それでは DHMOとはどのような物質なのか?
これを科学用語で正式に表すとDiHydrogen MonOxideで2個の水素と一つの酸素の化合物、つまりH2O(水)なのです。

水の分子

ここで言っていることは決して誤ったことを言っているのではなく正しいのですが、何かわからないDHMOなどという物質と言われるとかなり毒性がある物質と見てしまうのが恐ろしいところです。教訓としては言葉のイメージによって感じ方を変えないと言ったところでしょうか。世の中にはこれに類似するレトリックがたくさんありますね。



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アメリカ映画「ドリーム」を見た。

アメリカ映画「ドリーム」を鑑賞しました。原作はHidden Figures: The American Dream and the Untold Story of the Black Women Mathematicians Who Helped Win the Space Raceです。

b133c8747382ef61.jpg

日本語のタイトルはなんかぼやっとした言葉ですが、オリジナルのタイトルはHidden Figures:直訳すると隠れている数字、しかし深層な意味は「知られていなかった重要な人たち」の意味でもあります。もう一つ、この言葉には犯罪統計などに使う暗数(Dark Number)という意味もあって、これは報告されたレポートと実際の状況の誤差を表すようです。私自身はこの物語の一つのバックボーンとして物語の中に電子計算機(IBM7090)が出した宇宙船の着陸座標軌道(トラジェクトリー)の少しの違いを主人公が手計算で検算するテーマがでてきますが、それも含んだタイトルではないかと深読みしています。

時代はアメリカと当時のソ連が宇宙に繰り出す競争をしていた頃、ソ連のガガーリンが地球一周し、アメリカが競争に負けるところからスタートします。舞台はNASAのラングレー研究センターがあったバージニア州。当時はJFKが大統領の時代。しかし南部には根強く人種差別が残っている地域でした。そこで働く優秀な黒人女性3人にスポットを当てた作品。黒人であること、女性であることの二重の壁を打ち破りマーキュリー計画のみならずスペースシャトルの成功を支えた人たちの実話。

詳しく話すとネタバレになるので、ぜひ機会があれば見てもらいたい作品であるとのみ伝えておきましょう。
映像的にも懐かしいところがあってNASAに初めてIBMのコンピュータが導入された様子、磁気テープ装置が整然と並んでいるところ、主人公の一人がFORTRANを使ってプログラムをカードリーダーから読み込ませるなど初期のコンピュータの様子が再現されていました。


また後日譚があって当時の女性3名は今も元気で主人公の一人キャサリン・ジョンソンは2015年オバマ大統領から大統領自由勲章(Presidential Medal of Freedomを授かっています。また、2016年9月にラングレーにオープンした計算センターは、彼女の業績をたたえ、キャサリン・ジョンソン・コンピュテーショナル・リサーチ・センターと命名されました。
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まずは物語の予告編


映画の中のキーメッセーッジ。


元も気に入ったシーン

この映像の中で「気に入った, I like the numbers」と発言したのは当時のジョン・グレン。もっともキャサリンを信用したレジェンドです。

このシーンも良かったですね。


ぜひともこの映画をお楽しみあれ。

映画「風立ちぬ」に登場する乗物達

今日9月6日、宮崎駿監督が「風立ちぬ」を最後に長編アニメから引退するとの記者会見がありました。今後は自由に活動するとの事。自由というのはいいですね。なにものにもとらわれず大空を舞う。理想です。

さて、話は「風立ちぬ」に戻りますが、物語の内容はいろいろな人たちがそれぞれの立場で感想を述べていますし、ご自分が実際に映画をご覧になって宮崎駿さんの投げた球を受けるのがよろしいのではないかと思いますので、ここでは映画に登場する乗り物について話をしたいと思います。主役は紙飛行機を本物にしたようなシルエットの九式単座戦闘機や零戦ですが、脇役として幾つかの機関車や飛行機が結構重要な役回りを演じていますね。

技術の舞台は日本、ドイツそれとイタリア。

堀越二郎や里見菜穂子が関東大震災に襲われた時に乗っている客車を牽引している8620型の蒸気機関車。列車は2等車と3等車が連結されていましたね。3等車は庶民、2等車は今のグリーン車クラスで、ハイクラスの人たちが乗車していました。二郎は2等車、菜穂子は2等車。ここでそれぞれの立場が分かります。学生は清貧が美徳の時代でしたね。
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二郎が会社の仲間とドイツに訪れたときの列車を牽引していたのはドイツ鉄道の代表的な機関車BR18 (S3/6)。4気筒の機関車。
BR18 Screen
上記2種類の機関車を並べてみた場合、8620型機関車は日本が1914年に国内生産(基本は外国製8550のコピーのようなもの)した初めての小型機関車で速度は95Kmであったのと比べてドイツのBR18は1908年製造されもうすでに時速120Kmで走っていたのです。このように日本の技術はまだまだドイツに追いついていなかったことが分かります。このような背景をみると、高額の費用を負担してドイツに優秀なエンジニアを派遣する必要があったことがわかります。

二郎が軽井沢を訪れたときの碓氷峠を越えるアプト線とめがね橋。この機関車もドイツからの輸入品。
800px-JGR-10001-EL.jpg
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ドイツの工業力の象徴として描かれた飛行機。ドイツのユンカース社G-38。主翼のなかにも人が乗れる構造。全体を当時最新のジュラルミンの波板で覆われていた飛行機です。映画と同じく、実際も三菱によって日本でライセンス生産されました。製造工場の横に滑走路のあったドイツに比べて日本では完成した飛行機を牛が滑走路まで運ばなければならなかった、この大きな違い。そこを克服して列強に引けを取らないあるいは凌駕する性能を持った飛行機を作るといういわばミッションインポッシブルな要求を堀越二郎をはじめとする若いエンジニアは請け負ったのでした。
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カプローニの飛行機(Ca-60)
少年時代の堀越二郎がカプローニの夢のなかでみた大西洋横断を目論んだ飛行艇。実際に存在したのですね。物語と同じようにうまく飛び立てなかったようです。実質本位のドイツの堅牢な技術に対比してカプローニの飛行機は夢を実現してくれる全く違った世界を示しています。
CaproniCa60.jpg

そうそう、話は乗り物から離れますが、里見菜穂子がスケッチしている姿を見た時、クロード・モネの日傘の女を思い出しました。青いそらに傘を持った婦人。キャンパスはありませんが菜穂子ですね。
d0241407_2161379-1.jpg  クロードモネ日傘の女 のコピー 

また印象に残った絵の一つ。暗い廊下を歩く菜穂子の花嫁姿。表情に芯の強さが垣間見えるのではありませんか?
           hanayome.jpg

相当前に書いた「紅の豚」に関するブログ → 紅の豚




「栄枯盛衰の経済理論」ってあるのでしょうか。

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらわす。
驕れる者久しからず、ただ春の夜の夢の如し。
猛き人もついに滅びぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

平家物語

上記は殆どの人が知っている平家物語の第一巻の書き始めの言葉ですが、平家にかかわらず物事には必ずはじめがあって終わりがあるという誰も逃げられない運命と言うものがありますね。これは当たり前の話ですがそのときそのとき瞬間ではあまり認知していないというのが一般的ですね。明日が今日に延長でいつまでも続くような錯覚。

最近経済界でもいろいろな興亡がありますが、とくに先端技術を応用した製品のライフサイクルがどんどん早くなって来ていると感じます。

下図をご覧ください。5年前の携帯電話のメーカー別シェアが示されています。
携帯シェア

さて、それがここ5年間でどのように変わっていったか。

そのまえに、下記の写真を見てください。左がNokiaのスマートフォン、右がおなじみのiPhone。
nokia-n9-family.jpg iPhone.jpg
この2枚の写真は興味深い物語を示唆していますね。ノキアの写真はノキアの製品。ノキアの顔が見えません。所謂ハード機能そのもの。アップルはiPhoneというよりはSteve Jobsが象徴的。ノキアは製品を売ってアップルは使い方を売ったのですかね。勝負の舞台が違うという事でしょうか。

さて勝負はどうなったか?もうご存知ですね。
携帯シェア推移

2007年2QではNokia(ノキア)が60%以上のシェアを持っていてほとんど何もなかったAppleが2011年Q4では75%近いシェアをとってしまい、ノキアのシェアは殆どなくなっていますね。この間はたった5年です。新しい製品を考え、工場を企画して完成してそこから商品が出て行くまでは数年かかります。この推移を予測して前もって手を打っていてもシェア奪還に間に合わない事請け合いです。ノキアは無能な経営者によって運営されて来た会社ではないはずです。マーケティングなどもしっかりおこなわれていると思いますし、それを支える技術も確固たる物を持っていると思います。しかしながらアップルに市場を奪われていったのはなぜでしょうか?

ノキアはよく顧客の要望を聞いて製品を作り込んでいったのではないでしょうか。アップルはそれと反対で、あまり顧客の事を聞いていた気配がありません。自らの感性をもとにビジネスモデルを創ったのではないでしょうか。その結果、顧客が思いもよらなかった使い方がCOOLに思えたのでしょう。

一方今は安泰でもSteve Jobs亡き後のAppleにしてもこのまま我が世の春を満喫できる時間がどれ位許されているのか?誰にも分かりません。我々はこのような世界にいるのですね。昔は会社の寿命は50年位と言われていた時代もありました。それにくらべて5年の劇的変化は我々の働く時間に比べてもかなり短い、つまり何を拠り所にして仕事をしていくかが今後大きな課題になってきます。

さてここからが本題なのですが、なぜこのようなことがいろいろな分野で起こりつつあるのでしょう?人情として栄えている時間はずーとそのまま続くのがいいに決まっているのだしその延伸の努力をどのようにすべきなのか。結果としての失敗例が上記のノキアのケース以外にも沢山あります。銀盤フィルムの巨人コダックの凋落と富士フィルムの華麗なる転進、最近の日本半導体メーカの苦戦とサムソン、などなど。それではアップルや富士フィルムはなぜ成功したのか?会社が新しく変化について変わっていけたからなのか?これは経営者の慧眼によるものなのか?全然別の切り口もあります。前述したようにこの戦いに参加している会社の経営者は決して馬鹿ではありません。それなりに高レベルな賢さを持っていますよね。社内の競争を勝ち抜いた勝者でもあるのですから。経営者の能力だけで大差がつくような事にはならないと考える方がもっともらしい。したがって成功者と失敗者の微妙な違いは、先日述べた「たまたま」という本についての考察がありますが、経営者の能力に関わらずたまたまいい環境に入ったので成功したのか?たまたま外れてしまったので失敗したのか?

もし会社が身軽な体質ならば、サーフィンに例えて海面のたまたま発生するいいビジネスチャンスを捉えてその上を波乗りし続けていくのが成功する処方になってしまうのか?其の反面、石の上にも三年という達磨さんの教えを是とするような重厚な産業においての変遷などとのような折合いをつけるのか?

このような技術製品の栄枯盛衰メカニズムを分析した本にハーバードビジネススクールのクリステンセン教授が著した「イノベーションのジレンマ」という本があります。この本はとくに先端技術が拮抗するであろう産業で革新的な技術が従来技術を凌駕して同じドメインのビジネスの主導権を奪っていくという事象例を分析しています。必ず優等生的な仕事をしている会社が陥るかもしれない罠が書いてあります。罠に陥る会社とは、たとえば新製品を開発することによってどれだけ市場を占有できるかなど、綿密に調査した内容に従って開発予算と項目を決めているような会社の事です。つまり所謂エクセレントカンパニーと呼ばれている会社がかえって技術革新がドライブする市場では凋落の可能性が高くなるかもしれないという理論を提唱したのです。出版時は大きな関心が寄せられた書物です。

しかし未来にどのようなことが発生するかをミクロの視点から予測する事はされていません。何が過去におこったかはよく分析されていて今後も同じようなことが起こるという事も分かりますがあくまでそれはマクロの話で、本当の意味で其の理論を使いたい個々の会社でのミクロの予測が出来ないのですね。クリステンセン教授もこの本の続編を書いていて予測の域に挑戦をしていますが、この本に書かれている分析の鋭さに比較して予測はやはり矛先の鈍さを感じます。やはり「たまたま」理論が当てはまるのでしょうかね。

イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)イノベーションのジレンマ―技術革新が巨大企業を滅ぼすとき (Harvard business school press)
(2001/07)
クレイトン・クリステンセン

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もう少し深層のところになにか基本的なモメンタムを起こすためのマグマのような運動力があるのか?いまの経済ダイナミックスを研究してる理論は皮相的な現象を追っているのにすぎないか。なかなか疑問は晴れません。私個人の考え方としてはこの記事の始めに述べたように物事には終わりがあるのに、其の終わりを想定していない、疑似継続願望とでも言いましょうか、明日が今日と同じという瞬間瞬間しか考えられないという我々の性(さが)がこのような予測できない負けの現象を引き起こしているのではないか?とも考えられるのではないでしょうか。全ての起こりうる事柄を前提にしてそれに対処する経営方法など求めてもないのかもしれませんね。経済法則よりはもっと厳密な数学の世界でもユークリッドやビルベルトが公理から出発してすべての問題を証明できるという考え方を持っていましたが、ゲーデルが全ての問題を証明できるとは限らないという不完全性定理なるものを出してしまったのですから。

さらに平家物語のように、このような変化はたんに春の梅や風前の塵のようなもので大きな自然の営みの中では大事なことではないのかもしれぬと悟ってしまうのか。このテーマはもう少し今後も掘り下げていきたいと思っています。







松岡正剛さん:千夜千冊と1330夜の本「たまたま」

松岡正剛さん:
いきなりですが、松岡正剛という人はすごい人と思います。人には経歴という肩書きを述べる事によって時として権威らしく響くようなところがありますが、松岡正剛にはそのような肩書きは必要ありませんね。彼の読書評『千夜千冊』をそのまま受け入れればどのような人かを推し量る事は誰にでも出来ると思います。
松岡正剛ものを書くという事は創造を担うという事で大変素晴らしい仕事ですがその書かれたものを読み込んで鋭く作者以上の世界に引きずり込む書評を描く事はそれ以上の創造力が必要かもしれません。松岡正剛の仕事っぷりを見るとそれを実感します。読書は多技にわたっていて物理学、心理学、歴史、小説、論説など向かうところ全く境界線を感じさせません。2000年中谷宇吉郎の「雪」から始まった千夜千冊の執筆は千冊目の「良寛全集」で一応ゴールに達しましたが、病気療養の後に1001冊目から執筆を再開し、2012年現在も1470夜を経て継続中です。継続させるという事もそれのみに着目しても尊重されなければならない事だと思います。それも各著書についての著述が4000文字程度でまとまっているとは。
ところで彼のサイトのリンク先を示します
http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/table_list.html

松岡正剛は仕掛人でもあります。丸善丸の内本社の一角に松丸本舗という書店内書店をプロデュースしていてそこに一歩はいると松岡正剛の世界が広がるような仕掛けがあります。本屋というのはジャンル分けに整然と本が並び端正なショーウインドーの趣きがありますが、ここは違います。まるで本のジャングルに入ったよう。というか誰かの書斎に紛れ込んだ気分を味わうこと請け合いです。子供のときに廃工場に放置された錆び付いたポンプや工事現場後に置かれたひび割れた土管のなかを興味本位で覗くようなわくわくした好奇心が時空を飛び越えて脳裏に刺激を与えるようです。理屈や知識ではなくこれは何だろうという無意識におこる好奇心のようなものをくすぐる仕掛けをさりげなく実現している松岡さん。なかなかの人物です。
松丸本舗 松丸本舗2
松丸本舗のホームページ。


本や知識の集め方は今や検索の世界が主流になっています。iPadのライブラリーにしたって仮想の本棚に整然と電子書籍を集めるだけではないのかな?キーワードで欲しいものを調べる。それが見つかるとそのサイトにいって情報を得る。これらの作業は何となくクローズドループを駆け回っているような気がします。このプロトコルだと新しい発想が出てこない感じですね。それとは違って何の目的もなくネットサーフィンをして面白いものを見つけるとそれを検索する。これはオープンループで自分でも思ってみなかった事に邂逅する可能性があると言えます。まさしく松岡正剛がその著述や上記の松丸本舗で具現化しようとしている事はこのような遊びを意識しているようです。書籍と頭がハーモナイズするような世界を築いているのですね。松丸本舗にはその舞台装置が至る所に設けられています。

私がブログを書くときに少なからずも松岡正剛の千夜千冊が影響している事を正直に告白しなくてはなりません。時々その内容に関わる事柄を参考にさせてもらったこともありました。千夜千冊では、ロジャーペンローズの「皇帝の新しい心」は第4夜に取り上げられているし、この難解な書物をはっと晴れるようにわからせてくれる記述があります。第67夜では朝永振一郎博士「物理とは何だろうか」にかんして、松岡さんが発した言葉に対する朝永先生の優しくも深い言葉を書き留めているし、第284夜の「ご冗談でしょうファインマンさん」ではなんと松岡はリチャードファインマンに実際に会いにいったときの話をしている。少し引用しましょうか。
ぼくの最大の質問、「なぜあなたはあんなにすばらしい教え方ができるのか」をつづけた。そして数時間がたったとき、ファインマン先生はぼくに最後通牒をくだした。「科学はおもしろいものです。そうでしょう。ぼくは人をおもしろがらせるのが好きなんですよ、セイゴオ!」。えっ、答えはそれだけなの? そしてこう言いたくなっていた。ご冗談でしょう、ファインマンさん! やはり直接会ってはなしをしないとこのような事は言えません。

さて1330夜に読まれた本、「たまたま」を私なりに取り上げてみたいと考えました。
英語のタイトルは「Drunkard's walk」直訳すればすれば飲んべえの歩み:千鳥足という所でしょうか。これを「たまたま」という題名をつけた事も面白いですね。副題は曖昧さ(ランダムネス)が我々の生活を如何に左右するか?です。松岡正剛さんは松丸本舗発足に当りこの本の題名を「今週のタイトルベストワン」に選んだそうです。著者は昔カルテックでファインマンさんに物理学を学んだレナード・ムロディナウという人。この人は象牙の塔の中で暮らすというよりは寺山修じゃないけれど書を捨てよ街に出ようと言う感じ。書は捨てなかったけれども学問の探究にとどまらなかった多芸の人だったようです。大学を離れてから物理学や心理学を学び論文を出していたとか、それだけにとどまらなかったのは筋萎縮症で車椅子で有名なホーキングをたきつけてBrief History of Time:邦題『ホーキング、宇宙のすべてを語る』という本を出してベストセラーになったとか、恩師のファインマンの「ファインマンさん最後の授業」等という書物もものにしています。最後の授業ではファインマンさんの近くにいた経験を古に活用してファインマンさんの人間らしさを見事に表現しています。

たまたま―日常に潜む「偶然」を科学するたまたま―日常に潜む「偶然」を科学する
(2009/09/17)
レナード・ムロディナウ

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Dices.jpgさてこの「たまたま」の内容は掛け値無しにおもしろいですよ。ギリシャ人の確率の考え方、ローマ人キケロが最初に使ったプロバビリスが確率(Probability)の概念の根源になった事、パスカルの話やガリレイのギャンブル論などいろいろな物語や確率についての考察が述べられています。常識として今確立されているDNAによる個人鑑定についても一石を投じる話が展開されています。

詳細はネタバレになるのでここには述べませんが、確率の危うさや一般的に信じ込まれている事に関するアンチテーゼなど。常識にとらわれない見方から偶然について論理を広げています。この本は曖昧さの考え方が如何に現実のものの見方と乖離しているかを明らかにしようという魂胆が見えますね。目次の作り方も人を引きつけるような表現を採っています。その中の幾つかのテーマをここで述べたいと思います。

平均回帰の問題。
怒鳴れば上達するという直感的な誤信
飛行機操縦の教官が言うのには「褒めるより、怒鳴れば研修パイロットはいい成績を残すものさ」という言葉があったとしましょう。彼はこれを間違いなく信じています。現にそのような経験をしているので。しかしムロディナウは説明します。これは平均回帰の理屈で説明できる。研修生はそれなりに操縦に関しては日頃の練習をおこなってあるレベルに達している。素人が操縦している訳ではない。このようなケースでは平均回帰ということが起こる。操縦がうまくいくときもあれば少しまずいときもあるが、その平均を取るとある一定のレベルをキープしていると考えられる。さてうまくいった場合はその後は平均回帰のおかげでうまくいったようには行かなくて少しレベルが下がることもある。また駄目なケースでも平均回帰にしたがってその次は平均のレベルに戻る(別の言い方をすれば改善する)と考えられる。褒めるときはうまくいったときなのでその次は多分その結果は良くない方向に進みがちで、教官から見ると褒めごたえがない。駄目なときは怒鳴るので次は平均に向かって(改善)するので怒鳴りが有効と感じるだろう。この教官は自分の主観から上記のような事柄を信じてしまったのですね。このように物事はよく観察していかないととんでもない誤解や誤信が生まれる可能性があるのですね。

下記は日経平均の回帰曲線です。基本的には右肩上がりですが、実際の平均値はこの回帰曲線を上下しているのが分かります。平均値を実際に示すデータは少なくとも必ずそのような回帰曲線に沿って実際の経緯は進むのですね。
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モンティ・ホール問題(Monty Hall Problem)。
これは確率論を述べるときに、数学者も見事に誤答してしまったという有名な話です。この話はベーズ定理による事後確率の一つの例題として考えられるときがあります。

まずゲームのルールを説明しましょう。
1)3枚の扉が回答者の前にあります。その中の一つにアタリであるマセラッティーの車があるとします。後の2枚の扉の後ろはハズレです。
2) 回答者が扉の一枚を選びます。
3) どこにアタリがあるかを知っている司会者は回答者が選んだ扉以外の2枚のうち1つの扉を開けます。そこはハズレです。
4) 司会者は回答者に質問します。「扉を変えますか?それともそのままにしますか?ファイナルアンサー?」

さてここからが問題です。質問は「扉を変えない方がいいのか?変えた方がいいのか?」

これはモンティホールという司会者が取り仕切っているMake a dealという番組のゲームなのですが、この質問を日曜ニュース雑誌「パレード」の新聞コラム「マリリンに聞け」に投稿されてから一大事件が起こってしまいました。マリリンが答えた内容が多くの人の考え方と違ったのです。

Marilyn vos Savant左の写真はマリリン・ヴォス・サバント(Marilyn vos Savant)。マリリンという女性はIQ228の持ち主としてギネスにも載っているコラムニストで彼女の答えはいつも的を得て大変人気のあるコラムニストなのです。それがこの質問に関しては「間違ってしまってマリリンももうこれまでか」という話になってしまったのです。番組は今も継続中です。番組のホームページ(英文)はASK MARILYN
さて本題ですが、彼女の回答は「変えた方がいい」でした。これが大きな騒ぎになりました。ある数学者は扉が一つ開いたのだから正解は2つの扉のどちらかにある。したがって変えても変えなくても勝てる確率は50%-50%であるというものでした。さてその結果はといえば、まさしくマリリンが言った通り扉を変えた方がこのゲームに勝つ確率が2倍になるという事でした。


この話を著者のレナード・ムロディナウは次のように説明しています。まずはじめの段階、つまり解答者が3枚の扉を選ぶ段階ではその一枚を選び中にアタリがある確率は1/3であり、ハズレである確率は2/3になる。しかし次の段階、すなわち司会者が残りの中からハズレの扉を開ける場合は純粋にランダムの動作をしているのではなく作為のある行為をしたので、ランダムネスは崩れてしまう。司会者の行為をケース分けにすると
1) 解答者が選んだ扉が正解(アタリ)の場合、司会者は残りの扉のどちらでも無作為に開ける。扉を変更しなかった解答者はめでたくアタリを得ることができるが、変更するとはずれをつかまされる。
2) 解答者が選ばなかった扉、扉2としよう、がアタリの場合は司会者は扉3を開ける。
3) 解答者が選ばなかった扉の扉3がアタリだったら司会者は扉2を開けるであろう。
4) ここが重要なのですが、解答者が変更した場合は上記2の場合でも3の場合でも解答者はアタリを獲得することができます。
つまり2/3の確率でアタリを獲得することができるのです。もちろん変更しなかった場合は1/3の確率ですから変更した場合は変更無しの場合に比較して2倍の勝率があるのです。司会者がある恣意的な行為をおこなう事によって最初の確率の条件から次の確率条件が変わってしまう事を取り扱うのが前述しましたベイズの定理です。

ゲームを実際に体験できるホームページがありました。下記の図をクリックしますとゲームを楽しむことができます(New York Times)。ある程度回数を重ねるとどうもマリリンが言っている方が正しそうだということが分かると思います。

Monty-Hall Game Simulation IMG

またシミュレーションでも答えを出すことができます。統計ソフトRでの計算。回数は100,000回のプレイ。プログラムを簡単にするためにプレイヤーはDoor1を選ぶとします。その事によって一般性が失われる事はありません。下記にプログラム例と結果を示します。
R Program and Results
青字がプログラムで黒字がその結果です。ドアをスイッチした場合は33297回がはずれ、66703回が当りになっています。逆にドアを変えないと66703回がはずれ。33297回がアタリになります。ちなみに司会者の思惑を入れずにランダムにドアを開けるとまさしくハズレが50174回とアタリが49824回になりほぼ1/2-1/2になります。

ランダムに関する客観性と主観性。

乱数というものは本当にランダムに出てくると面白い現象を見ることがあります。我々が常識で考えられる順序と本当のランダムな状況とは本能的に違うように思われる場合があります。

一例を挙げます。下記は小数点20桁までの0-1の間の乱数です。
0.04586125149514998158    0.12416348419537998999
0.82991642802242301840    0.86993209429479038931
0.77875516631228120727    0.31505642303668700929
0.99825103832748557244    0.99762532379183434110
0.39961142546087171892    0.45337411213468249309

上記の右最上部の数字を見てください。15桁から20桁までは998999と並んでいますね。このように乱数列の中には同じ数字が幾つも並ぶことがあります。全く偶然のなせる仕業なのですが。実際にこのような場面に出くわすと人は何かの理由をつけてその事象を語る傾向にあると言えますね。例えばこの9が続く間はなにかバイオリズムがあってこの局面では大きい傾向が出るとか何とか。面白い話にIPodのランダム再生の機能がありますが、ある顧客から2度同じ曲が再生されたというクレームがアップルに寄せられたとか。Steve Jobs曰く「我々はそのランダム再生に少し手を加えたのさ」。これはもうランダムではないのですね。

エピローグ。
途中から最後まで読むと著者の目論見であるかどうかは分かりませんが、こちらが千鳥足になってきそうな、目もくらむような内容になっています。この本を確率論の説明ないしは解説書と期待するとそれは裏切られることになります。確率という概念を伏線にして、目の当たりにしている事象を思い込みなくどのように解釈していけるかという一種の心理学的な説明になっているのではないでしょうか。このような見地から目の前で起こっている事象をよく見ると今までいろいろな理屈をつけて説明して来た事が、待てよということになるのでは。

再び松岡正剛の千夜千冊。
それと松岡正剛さんの話に戻りますが、私は上記の「たまたま」の本の感想を10日以上かけて書き込みました。本書は結構読み解くのに時間がかかりました。それを反芻して自分なりの考え方を述べるとなると... それを当然のごとく私以上に幅広く深読みしてそれを凝縮して4,000文字の言葉で表してしまうなんて。松岡さんの1330夜を読むと理解できますが、そこにはこの本のみでなく、いろいろな本が紹介されていてそれが縦糸と横糸になりつぐみ合いながら一体化して、その上にこの本の特徴が浮き出ているという景色になっています。またそれを年間で100冊ぐらいのペースでやってのける卓越した文章生成力、強力なエネルギー、膨大な関連知識に完全脱帽です。