松岡正剛さん:いきなりですが、松岡正剛という人はすごい人と思います。人には経歴という肩書きを述べる事によって時として権威らしく響くようなところがありますが、松岡正剛にはそのような肩書きは必要ありませんね。彼の読書評『千夜千冊』をそのまま受け入れればどのような人かを推し量る事は誰にでも出来ると思います。

ものを書くという事は創造を担うという事で大変素晴らしい仕事ですがその書かれたものを読み込んで鋭く作者以上の世界に引きずり込む書評を描く事はそれ以上の創造力が必要かもしれません。松岡正剛の仕事っぷりを見るとそれを実感します。読書は多技にわたっていて物理学、心理学、歴史、小説、論説など向かうところ全く境界線を感じさせません。2000年中谷宇吉郎の「雪」から始まった千夜千冊の執筆は千冊目の「良寛全集」で一応ゴールに達しましたが、病気療養の後に1001冊目から執筆を再開し、2012年現在も1470夜を経て継続中です。継続させるという事もそれのみに着目しても尊重されなければならない事だと思います。それも各著書についての著述が4000文字程度でまとまっているとは。
ところで彼のサイトのリンク先を示します
↓http://1000ya.isis.ne.jp/file_path/table_list.html松岡正剛は仕掛人でもあります。丸善丸の内本社の一角に松丸本舗という書店内書店をプロデュースしていてそこに一歩はいると松岡正剛の世界が広がるような仕掛けがあります。本屋というのはジャンル分けに整然と本が並び端正なショーウインドーの趣きがありますが、ここは違います。まるで本のジャングルに入ったよう。というか誰かの書斎に紛れ込んだ気分を味わうこと請け合いです。子供のときに廃工場に放置された錆び付いたポンプや工事現場後に置かれたひび割れた土管のなかを興味本位で覗くようなわくわくした好奇心が時空を飛び越えて脳裏に刺激を与えるようです。理屈や知識ではなくこれは何だろうという無意識におこる好奇心のようなものをくすぐる仕掛けをさりげなく実現している松岡さん。なかなかの人物です。
松丸本舗のホームページ。
本や知識の集め方は今や検索の世界が主流になっています。iPadのライブラリーにしたって仮想の本棚に整然と電子書籍を集めるだけではないのかな?キーワードで欲しいものを調べる。それが見つかるとそのサイトにいって情報を得る。これらの作業は何となくクローズドループを駆け回っているような気がします。このプロトコルだと新しい発想が出てこない感じですね。それとは違って何の目的もなくネットサーフィンをして面白いものを見つけるとそれを検索する。これはオープンループで自分でも思ってみなかった事に邂逅する可能性があると言えます。まさしく松岡正剛がその著述や上記の松丸本舗で具現化しようとしている事はこのような遊びを意識しているようです。書籍と頭がハーモナイズするような世界を築いているのですね。松丸本舗にはその舞台装置が至る所に設けられています。
私がブログを書くときに少なからずも松岡正剛の千夜千冊が影響している事を正直に告白しなくてはなりません。時々その内容に関わる事柄を参考にさせてもらったこともありました。千夜千冊では、ロジャーペンローズの「皇帝の新しい心」は第4夜に取り上げられているし、この難解な書物をはっと晴れるようにわからせてくれる記述があります。第67夜では朝永振一郎博士「物理とは何だろうか」にかんして、松岡さんが発した言葉に対する朝永先生の優しくも深い言葉を書き留めているし、第284夜の「ご冗談でしょうファインマンさん」ではなんと松岡はリチャードファインマンに実際に会いにいったときの話をしている。少し引用しましょうか。
ぼくの最大の質問、「なぜあなたはあんなにすばらしい教え方ができるのか」をつづけた。そして数時間がたったとき、ファインマン先生はぼくに最後通牒をくだした。「科学はおもしろいものです。そうでしょう。ぼくは人をおもしろがらせるのが好きなんですよ、セイゴオ!」。えっ、答えはそれだけなの? そしてこう言いたくなっていた。ご冗談でしょう、ファインマンさん! やはり直接会ってはなしをしないとこのような事は言えません。
さて1330夜に読まれた本、「たまたま」を私なりに取り上げてみたいと考えました。英語のタイトルは「Drunkard's walk」直訳すればすれば飲んべえの歩み:千鳥足という所でしょうか。これを「たまたま」という題名をつけた事も面白いですね。副題は曖昧さ(ランダムネス)が我々の生活を如何に左右するか?です。松岡正剛さんは松丸本舗発足に当りこの本の題名を「今週のタイトルベストワン」に選んだそうです。著者は昔カルテックでファインマンさんに物理学を学んだレナード・ムロディナウという人。この人は象牙の塔の中で暮らすというよりは寺山修じゃないけれど書を捨てよ街に出ようと言う感じ。書は捨てなかったけれども学問の探究にとどまらなかった多芸の人だったようです。大学を離れてから物理学や心理学を学び論文を出していたとか、それだけにとどまらなかったのは筋萎縮症で車椅子で有名なホーキングをたきつけてBrief History of Time:邦題『ホーキング、宇宙のすべてを語る』という本を出してベストセラーになったとか、恩師のファインマンの「ファインマンさん最後の授業」等という書物もものにしています。最後の授業ではファインマンさんの近くにいた経験を古に活用してファインマンさんの人間らしさを見事に表現しています。

さてこの「たまたま」の内容は掛け値無しにおもしろいですよ。ギリシャ人の確率の考え方、ローマ人キケロが最初に使ったプロバビリスが確率(Probability)の概念の根源になった事、パスカルの話やガリレイのギャンブル論などいろいろな物語や確率についての考察が述べられています。常識として今確立されているDNAによる個人鑑定についても一石を投じる話が展開されています。
詳細はネタバレになるのでここには述べませんが、確率の危うさや一般的に信じ込まれている事に関するアンチテーゼなど。常識にとらわれない見方から偶然について論理を広げています。この本は曖昧さの考え方が如何に現実のものの見方と乖離しているかを明らかにしようという魂胆が見えますね。目次の作り方も人を引きつけるような表現を採っています。その中の幾つかのテーマをここで述べたいと思います。
平均回帰の問題。怒鳴れば上達するという直感的な誤信飛行機操縦の教官が言うのには「褒めるより、怒鳴れば研修パイロットはいい成績を残すものさ」という言葉があったとしましょう。彼はこれを間違いなく信じています。現にそのような経験をしているので。しかしムロディナウは説明します。これは平均回帰の理屈で説明できる。研修生はそれなりに操縦に関しては日頃の練習をおこなってあるレベルに達している。素人が操縦している訳ではない。このようなケースでは平均回帰ということが起こる。操縦がうまくいくときもあれば少しまずいときもあるが、その平均を取るとある一定のレベルをキープしていると考えられる。さてうまくいった場合はその後は平均回帰のおかげでうまくいったようには行かなくて少しレベルが下がることもある。また駄目なケースでも平均回帰にしたがってその次は平均のレベルに戻る(別の言い方をすれば改善する)と考えられる。褒めるときはうまくいったときなのでその次は多分その結果は良くない方向に進みがちで、教官から見ると褒めごたえがない。駄目なときは怒鳴るので次は平均に向かって(改善)するので怒鳴りが有効と感じるだろう。この教官は自分の主観から上記のような事柄を信じてしまったのですね。このように物事はよく観察していかないととんでもない誤解や誤信が生まれる可能性があるのですね。
下記は日経平均の回帰曲線です。基本的には右肩上がりですが、実際の平均値はこの回帰曲線を上下しているのが分かります。平均値を実際に示すデータは少なくとも必ずそのような回帰曲線に沿って実際の経緯は進むのですね。
モンティ・ホール問題(Monty Hall Problem)。これは確率論を述べるときに、数学者も見事に誤答してしまったという有名な話です。この話はベーズ定理による事後確率の一つの例題として考えられるときがあります。
まずゲームのルールを説明しましょう。
1)3枚の扉が回答者の前にあります。その中の一つにアタリであるマセラッティーの車があるとします。後の2枚の扉の後ろはハズレです。
2) 回答者が扉の一枚を選びます。
3) どこにアタリがあるかを知っている司会者は回答者が選んだ扉以外の2枚のうち1つの扉を開けます。そこはハズレです。
4) 司会者は回答者に質問します。「扉を変えますか?それともそのままにしますか?ファイナルアンサー?」
さてここからが問題です。
質問は「扉を変えない方がいいのか?変えた方がいいのか?」これはモンティホールという司会者が取り仕切っているMake a dealという番組のゲームなのですが、この質問を日曜ニュース雑誌「パレード」の新聞コラム「マリリンに聞け」に投稿されてから一大事件が起こってしまいました。マリリンが答えた内容が多くの人の考え方と違ったのです。

左の写真はマリリン・ヴォス・サバント(Marilyn vos Savant)。マリリンという女性はIQ228の持ち主としてギネスにも載っているコラムニストで彼女の答えはいつも的を得て大変人気のあるコラムニストなのです。それがこの質問に関しては「間違ってしまってマリリンももうこれまでか」という話になってしまったのです。番組は今も継続中です。番組のホームページ(英文)は
ASK MARILYN さて本題ですが、彼女の回答は「変えた方がいい」でした。これが大きな騒ぎになりました。ある数学者は扉が一つ開いたのだから正解は2つの扉のどちらかにある。したがって変えても変えなくても勝てる確率は50%-50%であるというものでした。さてその結果はといえば、まさしくマリリンが言った通り扉を変えた方がこのゲームに勝つ確率が2倍になるという事でした。
この話を著者のレナード・ムロディナウは次のように説明しています。まずはじめの段階、つまり解答者が3枚の扉を選ぶ段階ではその一枚を選び中にアタリがある確率は1/3であり、ハズレである確率は2/3になる。しかし次の段階、すなわち司会者が残りの中からハズレの扉を開ける場合は純粋にランダムの動作をしているのではなく作為のある行為をしたので、ランダムネスは崩れてしまう。司会者の行為をケース分けにすると
1) 解答者が選んだ扉が正解(アタリ)の場合、司会者は残りの扉のどちらでも無作為に開ける。扉を変更しなかった解答者はめでたくアタリを得ることができるが、変更するとはずれをつかまされる。
2) 解答者が選ばなかった扉、扉2としよう、がアタリの場合は司会者は扉3を開ける。
3) 解答者が選ばなかった扉の扉3がアタリだったら司会者は扉2を開けるであろう。
4) ここが重要なのですが、解答者が変更した場合は上記2の場合でも3の場合でも解答者はアタリを獲得することができます。
つまり2/3の確率でアタリを獲得することができるのです。もちろん変更しなかった場合は1/3の確率ですから変更した場合は変更無しの場合に比較して2倍の勝率があるのです。司会者がある恣意的な行為をおこなう事によって最初の確率の条件から次の確率条件が変わってしまう事を取り扱うのが前述しましたベイズの定理です。
ゲームを実際に体験できるホームページがありました。下記の図をクリックしますとゲームを楽しむことができます(New York Times)。ある程度回数を重ねるとどうもマリリンが言っている方が正しそうだということが分かると思います。

またシミュレーションでも答えを出すことができます。統計ソフトRでの計算。回数は100,000回のプレイ。プログラムを簡単にするためにプレイヤーはDoor1を選ぶとします。その事によって一般性が失われる事はありません。下記にプログラム例と結果を示します。

青字がプログラムで黒字がその結果です。ドアをスイッチした場合は33297回がはずれ、66703回が当りになっています。逆にドアを変えないと66703回がはずれ。33297回がアタリになります。ちなみに司会者の思惑を入れずにランダムにドアを開けるとまさしくハズレが50174回とアタリが49824回になりほぼ1/2-1/2になります。
ランダムに関する客観性と主観性。乱数というものは本当にランダムに出てくると面白い現象を見ることがあります。我々が常識で考えられる順序と本当のランダムな状況とは本能的に違うように思われる場合があります。
一例を挙げます。下記は小数点20桁までの0-1の間の乱数です。
0.04586125149514998158 0.12416348419537998999
0.82991642802242301840 0.86993209429479038931
0.77875516631228120727 0.31505642303668700929
0.99825103832748557244 0.99762532379183434110
0.39961142546087171892 0.45337411213468249309
上記の右最上部の数字を見てください。15桁から20桁までは998999と並んでいますね。このように乱数列の中には同じ数字が幾つも並ぶことがあります。全く偶然のなせる仕業なのですが。実際にこのような場面に出くわすと人は何かの理由をつけてその事象を語る傾向にあると言えますね。例えばこの9が続く間はなにかバイオリズムがあってこの局面では大きい傾向が出るとか何とか。面白い話にIPodのランダム再生の機能がありますが、ある顧客から2度同じ曲が再生されたというクレームがアップルに寄せられたとか。Steve Jobs曰く「我々はそのランダム再生に少し手を加えたのさ」。これはもうランダムではないのですね。
エピローグ。途中から最後まで読むと著者の目論見であるかどうかは分かりませんが、こちらが千鳥足になってきそうな、目もくらむような内容になっています。この本を確率論の説明ないしは解説書と期待するとそれは裏切られることになります。確率という概念を伏線にして、目の当たりにしている事象を思い込みなくどのように解釈していけるかという一種の心理学的な説明になっているのではないでしょうか。このような見地から目の前で起こっている事象をよく見ると今までいろいろな理屈をつけて説明して来た事が、待てよということになるのでは。
再び松岡正剛の千夜千冊。それと松岡正剛さんの話に戻りますが、私は上記の「たまたま」の本の感想を10日以上かけて書き込みました。本書は結構読み解くのに時間がかかりました。それを反芻して自分なりの考え方を述べるとなると... それを当然のごとく私以上に幅広く深読みしてそれを凝縮して4,000文字の言葉で表してしまうなんて。松岡さんの1330夜を読むと理解できますが、そこにはこの本のみでなく、いろいろな本が紹介されていてそれが縦糸と横糸になりつぐみ合いながら一体化して、その上にこの本の特徴が浮き出ているという景色になっています。またそれを年間で100冊ぐらいのペースでやってのける卓越した文章生成力、強力なエネルギー、膨大な関連知識に完全脱帽です。